Winkなたわごと

25.なんちゃってガン 2008年 晩夏


私の弱点は、ひとりで楽しめないことだ。
人を喜ばせたり、驚かせたりすることで、自分がようやく確立される。
だから、人がいないと、楽しめない。
困っている人を助けないと、自分が助からない。
「ふつう、ボランティアは、そこまでしないでしょう?」ということを堂々とやってのけて
人を喜ばせ、驚かせることができたら、歓喜は頂点に達する。

「欲しいものは、お金じゃあないんです」と、
一般的には理解しがたいことを心から思っているし、口に出しても言う。

こんな自分を、困った性格だと思いながらも、そんな生き方を続けてきたから、
そんな生き方が楽で、得意になってしまった。

思いもよらない所で、喜んでくれる人がいると、私も、思いもよらず嬉しいので、
最近では、人を喜ばせることを捜し求めている始末だ。

ガンになる前も、ガンになってからも、なんら変りはない。

逆に、ガンになったことで、一風変ったそんな生き方や、考え方を、堂々と語ることが許されるのではないだろうか?などという期待すらしていた。

ガンの告知をうけたとき、肩書きをもらえたような気がしたのは確かだ。
本を書けば、出版してもらえるような気もした。
これからは、今までしていた半分程度のことをしていても、
「がん患者本人が・・・」と、皆が喜んでくれるだろうと、安堵した。

しかし、現実は、そんなに甘くなかった。
「ガン」ではあるけれど、私などは、まだまだ新米。
「ガン」だから威張れるとか偉いとかいうわけでもなく、大した事態ではないのを痛感した。

「本を書こう」と、思っても、文才もなく、思い浮かぶ内容は、がん患者特有の色合いが全く感じられない。
私の感覚では、命が云々、家族がどうこう、両親がどうした、それらのネタを「ガン」に結び付けて長々と展開できないのだ。
嘘を並べるのも面倒くさくて、即挫折。

健康で、お酒を飲んで楽しく騒いでいる人々に対しては、「私は、ガンなのよ」と、
恨みやら、嫉妬やらに似た感情が湧いてくる。
がん患者さんの集まりでは、純粋で一生懸命な人々の心に触れると、「変なことを言わないようにしなくちゃ」と、自分の言動を慎みながら、私の感覚が、がん患者さんとは大きくずれていることを感じた。

私は、どこにも所属できないのか?と、ひねくれたりもした。
その「ひねくれ」は、がん患者特有のものだとすれば、
私だって、普通のがん患者さんと、「ひねくれ」の部分は共通だと思う。

健康なときも、なにもかも、まるっと同じ感覚の人が存在するわけではなかった。

ガンになったからと言って、がん患者さん全ての人と、まるっと同じ感覚になれるはずなどなくて当然だったのかもしれない。

育った環境やら、経験してきたことがそれぞれ違うから、同じはずがない。

自分を分かってもらえる場所を探そうとすると、なかなか難しいが、
人は、自分と違うということを心得ておけば、新しい出会いに大きすぎる期待をしたり、執拗におびえたりすることもなさそうだ。
誰かの支えになったり、誰かに支えてもらったりしながら、一喜一憂しつつ、いろいろあったほうが、おもしろい。

なにしろ、私は、人を喜ばせるのが趣味だから、「ひねくれ」を腑に落とす理屈が必要だ。

ときには、考えなくてよいことを、考えたりもする。
そして、
「自分がどこかへ行ってしまいそうになったら、自分で自分を尊重すりゃ十分だ」
などと、地に足を着けたふりをして、「ガン」にすがる。
そう、私は、ガンだから「ひねくれ」なのよね。


あたしゃ、「なんちゃってガン」


なにもかもが、たわごとです。
ふざけているし、ばかげています。


皆、同じではなく違うことを覚悟して、「さあ、みなさま、Welcomeです」


がん患者も、そうでない人も、なんちゃってガンの私も、
すべてが、生きるサバイバー。


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